昭和五十七年八月二十一日 朝の御理解


 御理解第四十二節
これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、     信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。


御祈念中に、テレビで宣伝をしておりますあの大熊カバン店というのが福岡にあります よね、あの宣伝に皆さんもウサギさんがランドセルをからってコロッと転ぶ所を、あるでしょ、可愛らしいいわゆるそのウサギがうさぎの耳がこうたって片一方はこう垂れてるんですよね、画面に見るのは、で私は思ったんですけれども、ま、可愛らしいですね、あれウサギがピュンピュン飛びながらランドセルをからって遊んでおると、コロッとこうこける所がある。こける事もまた可愛らしい無邪気である。
耳が半分に片一方垂れておるという事は、私は信心をこうやってさせて頂いておるけれども、ひとつも親のいう事を聞かん、いうなら御理解を聞いてもそれを実行しない。   どうしていう事を聞かんのか、例えば、子供に勉強せれ、勉強せれというても勉強をしない、そういう時に私は、その無邪気さに可愛らしさを感じれるような信心、ま、これは私、取次者としてそういう時に、ま無邪気なもんだな、可愛らしいもんだなと、こう感じられるような御取次ぎが出来ねばいけないなあと、今朝から思った事でございます。ね。
こうしてこうなりゃこうなるんだとね、それはそこにはもう整然としてですね、あのう そういうどうしてこういう事が起こるであろうかと、こう、そりゃもうどうしてそういう事じゃなくて、そう起こらんならんような信心しか出来てないのである。ね、
けれども、そういうふうにおかげが受けられんで神様に、そのかえって文句を云うような人もあります。そういう時に、なら、これは取次者の私がです、ま、この人ばっかりは分からん奴じゃあるというような見方じゃ助からんように思うですね。
も、そういう時に、本当に無邪気なもんじゃと、いうならば御理解も聞こうとしない、 実行しようともしない、それでおかげが受けられんと、どうしてこんな事が起こるであろうかというように、神様に文句を云うような信者が例えばあったに致しましてもね、そこに私が、まあ無邪気なもんじゃ、可愛い者じゃというような心で次の信心を願わなければいけないなあ、本当に一心発起出来るような信心を願わなきゃいけないなあと、今朝から私はそんな事を思ってここへ退がらして貰ったら、今日の御理解ですね。
これ程信心するのにどうしてこういう事が起こるであろうかと、いう時にはいわゆる信 心が分かっておらんのであり、日頃頂いておる教えも身に付いていない時である。   ま、いうならば信心が育ってない。それを、なら、私から見ると可愛い者じゃ、無邪気な者じゃなというような、そして信心が本当に育つ事の願いをもたせてもらわねば、いちいちここで私が、も、この人ばっかりはいくら云うて聞かしたっても分からんね、教えを行じようとはせずにおかげおかげばかり云うて、もうあんたの信心な何年になるかというような思いがするもんです。
 皆さんの場合でもそうでしょ、ね。
自分の信心が少し分かりだすと、さあ息子にも分からしたい嫁にも分からしたい。嫁御にはなおさら分からせたい、ところが信心にならぬ、ね。
この頃、久富繁雄さんの奥さんが手に火傷をしなさった。それで、御神米をこう張って から、本当御神米でおかげ頂いてからち、云うちから云いよんなさったら、嫁御がどげん云うかち云うと「そりゃお母さん、おかげじゃなかばの」ち云うたげな、ね。
「そりゃなんの」ち云うたら、「信心しよるなら、そげな火傷やらするめもん」ち、嫁御が云うたと、お届けをここでされました。
ちょっと聞くと、こう腹の立つごたる感じですけどね、ね。お母さんがおかげと云うて 、「本当におかげですの」ち云うちから、まあ云うてくれりゃ親も嬉しいけれども、それはおかげじゃなかち、ね。かえって信心しよって火傷するなら、あんたおかげじゃなかやんのち。
成る程、嫁御が云うてる方が、「そりばってん、おかげ」ち、また婆婆しゃんが云わしゃったげな、「あんたがそげん云うなら、仕方なかてい」ち、嫁御が云うたげな。
だから、そういう事ではね、結局私が、なら、嫁御に信心がない又は息子が信心がない 場合には、少し信心が分かった者から云うと、本当に信心のない者ばかりはどうにも仕方ない事だというふうに、ま、見がち思いがちなんですけれども。そういう時にその云うておる。なら、子供なら子供、嫁なら嫁にあり方にです無邪気を感ずる、可愛らしいものすら感じられるような信心の一つのゆとりというかね。を。なら、これを私と皆さんの場合であってもですね。
昨日、英語の講習会が終って先生方皆帰られるのに、もう本当に松本先生がおしゃった と云う事ですけれども、もう兎に角、信心の講習か英語の講習か分からないような雰囲気で三日間が終った、という事ですね。
もう、あのう松本先生なんかは、も、ここの修行生だけをとらえて、も一生懸命その信 心の話をなさる。開口一番には、自分がおかげ受けられた事を話しをなさる。
講演の時に、そして自分もあらゆる大きな英語の事で宗教を関係にお付き合いもあるし、特に泉尾なんかには、いつも参らしていただく、ね。
泉尾の先生が、海外にはああしていつも行かれるから、いわゆる先生をその通訳としてから、ま、その十分の事をして、泉尾教会に入らないか、というふううにお勧め頂いた事があるそうですけれども、その時までは金光教に対するよいイメージを持たなかった、ね。けれどもね、合楽に来て、もう私の信心が信心じゃない、私の人生が一変したという事を繰り返しおしゃったそうですね。
昨日、福岡までお送りするその車の中でも、本当に私は福岡に愛人が出けたような思い だ、と云われたというのです。九州が慕わしゅうて慕わしゅうてと、いう所になったと、ね。そして、私の知っておる、なら泉尾教会にしろ、あれは他の宗教のね、いろんな大きな宗教者との関係もおありになるけれども、確かにここよりも数倍大きい教会を知っておる。大きい宗教を知っておる。新興宗教を、なんかでも、けれども、大きいけれども偉大さがない。合楽教会はさほど大きくはないけれども、お話しをしておればしておる程、お話しを聞いておれば聞いておる程、もうここの親先生のお話しは、もう五臓六腑に沁みわたるという言葉を使われたそうでございます。どうでしょう皆さん、私の話しを聞いて五臓六腑に沁みわたるようなねおかげを頂かれたら、それこそ人生観が変わってしまう。そこから、私は一心発起というものが出来ると思うんですね。
合楽の偉大さは、例えば泉尾の先生でいうと、も、世界せましとこう歩いて回られるけ れども、先生は門外不出、出られないという話しを聞いていよいよその偉大さを感じました。教会は小さいけれども、いわゆる大きい教会に偉大さは感じられなかったけれども、合楽に来て合楽の信心の偉大さを感じた、というふうに云われたという事を昨日聞きました、ね。米国の女の先生が来ておられましたが、その先生はここの先生はハッピーの神様だと云うふうに表現されたという事です。
だから、なら皆さんの場合は、こうやって朝晩ああしてお話しを聞きお会いしておりま すから。そういう、ま、特別な何と云うでしょうかね、そういうなら人の話しを日々頂いておるのであるから、本気で構えを作って今日の御理解をどこを頂き、どこを実験実証していくかという事に本気で取り組まんならんように思うですけれども。それが出来ない時に、なら私の心の中にどうしていつまで分からんじゃろか、おかげおかげばかり云うて、信心の方には教えを行じようとも守ろうともしない。
そして、心の中にはね、どうしてこういう事が起こるであろうかというような、神様に 不平不足を云いたいような状態の場合を見る時にです、本当にまあ可愛らしい、ね。
例えば、そこに転んでもそれに無邪気さを感じられるような信心に、私自身がならなければいけないと思ったんですけれども。
なら、皆さんの場合でもそうですね。皆さんの家族の皆が、そのお母さんが信心してお れば、お母さんにお母さんお母さんというてついてくれりゃ、ま、それでよい有難いけれども。でない、いうなら反対のような事をいうようなば場合であってもね、私は、そこに信心のなか奴ばっかりはというような見方じゃなくてね。大熊カバン店の、あのウサギじゃないけれどもね、それこそ跳んで跳ねて転んだり、そこに、あの可愛らしさとか無邪気さが感じられるような信心を頂いて、そこから祈ってあげる信心がいるように、のじゃないでしょうか。
そして、たとえて、ま今日の御理解を、ま頂くならばです。どうしてこのような事が起 こったであろうか、というのではもう信心がとまっとる。これは信心が足りんのだと一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられるとおしゃるとおしゃる。
だから、私共が日頃こうやって教えをそのまあ頂いておってです、そういう時がチャン スです、一心発起する。本気で信心の、結局ね、教えを行じないという事は、信心の意欲を持たないからです。欲がないのです。だから、いうなら無邪気なんですね。子供達に、勉強せい勉強せい、まあだ勉強の意欲がないのです。それを、親が見ると少しでも勉強を身に付けてやりたいというて、やかましくいうけれどもね。問題は、そこに勉強の楽しさが分かるような信心意欲を持たせて下さい。勉強の意欲を持たして下さい。
信心の欲がない、ただおかげの事だけで信心の欲がない。信心の欲が出けたら、それも お徳、これもお徳、もうみんなあれもこれもお徳の材料にしていけれる材料を持ちながら、どうしてといったような事ではいつまでたってもおかげは受けられん、お徳は受けられない、ね。
だから、どうしてと例えば私共が思うたりする時にですね、いわゆる信心の欲というか ね、信心意欲を燃やさにゃいけません、ね。これは燃やさないとね、楽しさとか喜ばしさというものは生れてこないですね。ちょっと何かがあると、また元に戻ってしまうというような人があります。はあ、これから頑張りますと云いよるけん本当かと思や、何か一寸した事があったら、もうぴしゃと止めてしまう。ね、だからそれを責めるわけではない。だから、そういう場合です、その無邪気さに可愛らしさの感じられるような、これは私、また皆さんにもならなければいけない。
そして、そこから祈っていく、んなら頂く方の側からとしてはです、本当にこれだけ信 心しておるのにどうしてこんなに難儀が続くだろうか、というような思いをする時こそね、いよいよ信心の欲を燃やさないといけない時だ。ね。信心の欲を燃やす所から、私は本当の信心が身に付いてくる。私の話しにです、本当に五臓六腑に沁みわたるような思いで信心を頂かせて頂いて、ね、それを信心生活の上にも行じ表わしていく事に徹する。と云う事は、そこに信心意欲というか、そのね、例えば寛一お宮の寛一じゃないばってんね、金の亡者にってしまう。金の夜叉にね。金の儲かる事なら、もう絶対どんな事でもやるというようにです。
私は、徳の亡者にならないけんと思う、ね。信心意欲を燃やしてまいりますとです、も う人が笑おうが悪口を云おうがどんな事があってもね、これがお徳になるんだと、も、思ったらはずさない。云われたっちゃかんまん、もうお徳がついていく事が楽しいというような、この意欲を燃やせる。そういう欲をかかげ立てさせられる信心、その過程においては、今云うようにまあ無邪気な信心であってもいいでしょう。ならまた皆さんの家庭の中にもです、そういう無邪気な人がいくらでもおりますけれども、それでいちいちそれを苦にしたり、悪く云ったりするのじゃない。その無邪気な信心から、本当に信心意欲が出るように祈ってやれれる豊かな信心が、また必要であるというふうに思います。ね。
信心意欲をかりたてるね、それには本気でお徳を受ける為の、いうならば修行にね目覚 める。信心に目覚めるという事はね、これがお徳の元になるんだと思ったら、もうお粗末には出来ない、人が笑おうが悪口を云おうがね、もう、むしろ有難くなってくるといったような信心にという、そういう一心発起というものがね、これはまあだ信心が足らんのじゃというのはそういう事に気付くのじゃないでしょうかね。                                                どうぞ